髙橋 繰り返しになりますが、新生会も新生メディカルも、スタッフの皆さんはとても優秀です。それぞれの施設をお訪ねするたびに、責任者の方々が仕事に誇りと責任をもっていると伝わってきます。新生メディカルのヘルパー(訪問介護「身体0」)さんたちのレベルも高いことが、この対談に先立つ記事で紹介されています。
介護の職場では、人材不足や、人材が定着しにくい問題が指摘されています。人材育成についてはどう取り組んでおられますか。
石原 かつて新生メディカルで旧ヘルパー2級の研修をするとき、最初の何時間かは私がものの考え方をレクチャーしていました。それが研修のスタートで、テクニックは後回しです。考え方が大事。
■人を育てる組織
石原 現場に入れば、利用者を一対一で担当するのではなく、複数のヘルパーがチームを作って担当するシステムです。チームでケアすれば、だれか体調が悪くなったりしても交替できますから。
そういうチームを利用者ごとに形成して、その1人をリーダーにします。別の利用者のチームでは別の人がリーダーになります。だから、あるチームでリーダーを務める人は…
利用者のために走り続けて50年 岐阜・新生会グループの軌跡 中🆕
■岐阜県内で多彩な事業を展開
髙橋 1986年に社会福祉法人サンビレッジ新生苑は「社会福祉法人新生会」と法人名を変更します。新生メディカルが在宅介護事業を始めたのが88年。まさに高齢化の進行に合わせて、新しい事業展開が始まったのですね。
78年の厚生白書は老親と同居する家族を「福祉の含み資産」と形容しました。80年代に入るとそういった日本型福祉社会論も色あせていき、石原さんが前回おっしゃった、あるべき高齢者ケアへの模索が政策レベルでも始まります。89年に策定されたゴールドプラン(高齢者保健福祉推進十か年戦略)はその象徴です。
新生会も新生メディカルも、この時代の動きと軌を一にして多彩な事業を展開していきますね。夢中になって創っていかれた感があります。
石原 そうでしたね、今思えば。毎年じっとしていませんでした。
髙橋 新生会の面白いところは、介護だけにとどまらない点です。介護サービスがコアではあるけれど、地域全体を大切に、絶えず働きかけてこられました。事業の幅は広く従業員数も多い。全国展開の法人にも引けを取らない規模といっても過言ではないのに、決して岐阜県外には出られません。
石原 繰り返しになりますが、日本とオーストラリアの高齢者ケアがかけ離れていて、そこをなんとかしたい一心でした。だから全国区になりたいなんて全然考えなくて。ただ、こういう事業は小さすぎると潰れちゃうから…
利用者のために走り続けて50年 岐阜・新生会グループの軌跡 上🆕
■新生会と新生メディカルの始まり
髙橋 岐阜県の西濃地域を拠点とする社会福祉法人新生会(本部・岐阜県池田町)は、2021年に創立45周年を迎え、50周年も目前です。1976年(昭和51年)、前身である社会福祉法人サンビレッジ新生苑を設立し、特別養護老人ホーム「サンビレッジ新生苑」を創設したのが始まりです。
新生会はおよそ50年にわたって福祉・介護事業を幅広く展開してこられました。始まりの事業であるサンビレッジ新生苑は、石原さんの父上である今村勲医師が手がけられたのですね。
石原 父は外科医で、戦前は名古屋市の病院に務めていました。戦火の拡大で池田町に疎開し、終戦後も名古屋に戻らず池田町に診療所を開いたのです。求められて往診によく出かけていました。初めのうちは結核患者が多かったそうです。
診療所は規模を拡大し、1973年に新生病院となります。そのころ父は、誰もいない家に一人、おむつを当てられ寝かされている高齢者が増えていることに気づきます。
髙橋 その背景には、家族形態の変化や家族員の兼業化が進んだことがあります。家族による世話が難しくなり…
地域包括ケアの今とフレイル予防への期待(下 )
■フレイル予防というミッション
髙橋 介護保険ができた2000年当時と比べて長寿化が進み、介護予防に加えてフレイル予防という概念が定着しています。辻󠄀さんはフレイル予防推進にかかわっていますね。
辻󠄀 フレイルとは加齢に伴う虚弱のことですが、これは老いに伴う現象であって病気ではない。もちろん病原性のフレイルもあります。例えば脳卒中を起こして、まひが残るなど心身の状態が落ちるのも、フレイルです。糖尿病も、フレイルを進行させる要素です。
でも、フレイルの根本は、老いたら弱るという自然現象なんですね。この領域には生活習慣病のように特効薬はありません。ただし、フレイルの段階だと、高齢者自身の一定の行動変容だけで進行を遅らせたり、軽減させたりできるという可逆性があります。
髙橋 高齢者が亡くなるまでの経過は、辻先生の同僚であられた秋山弘子東大名誉教授の論文で指摘されているとおり、その要因によって大きく3パターンに分かれますね。日本人の死因1位であるがんは…
地域包括ケアの今とフレイル予防への期待(上)
■地域包括ケアの各システムのモデルがない
髙橋 2022年3月、「地域包括ケア」の生みの親かつ名付け親である山口昇医師が逝去されました。90歳でした。
山口先生は今から50年近く前、御調国保病院(現・公立総合みつぎ病院=広島県尾道市。当時は御調郡御調町)で「寝たきり老人ゼロ作戦」を始め、その一環として「医療の出前」を実施したことでも知られています。
そして2023年は、介護保険の創設に尽力された池田省三氏の没後10年です。池田氏は介護保険について、創設後も発言し続けましたが、その主張は常にデータに裏打ちされていました。
高齢者ケアに大きな足跡を残したお2人を思い出し、時の流れを感じます。今の地域包括ケアシステムについて、辻󠄀先生はどう見ておられますか。
辻󠄀 地域包括ケアシステムの概念が国の政策の舞台に現れたのは、2003年の厚労省の高齢者介護研究会の報告書です。
そして法律上、その考え方が介護保険法の条文に加えられたのは、2011(平成23)年改正で、2014年の医療介護総合確保推進法で地域包括ケアシステムの定義が法律上なされ…
重症心身障害児と地域で歩む 「訪問の家」の50年③
■ターミナルに向き合う
髙橋 1993年に「朋診療所」を開設されました。そのいきさつや、医療との関わりを教えてください。
名里 神奈川県では、障害をもつ子どものほとんどが県立こども医療センターに通います。「朋」のメンバーたちも同様なんですが、ところが18歳なると容赦なく、もうこども医療センターでは診られない、次のところに行ってくださいと言われてしまいます。
次のところとは、一般の総合病院です。だけど、総合病院は障害のある人を診たことがなく、なかなか受け入れてくれません。こども医療センターの後に診てくれる主治医を探すのが大変で、自前のクリニックをもとう、となったんです。
もう1つは、進行する病気で、何回も入退院を繰り返し、どんどん状態が厳しくなってしまうメンバーがいました。その方のお母さんが日浦に「朋はどこまで付き合ってくれる?」と聞いたそうです。診療所を開く前で、「朋」には週に何回か、嘱託医が来るだけでした。
そう聞かれて、日浦は「ずっと付き合いたい。最後まで付き合いたい」と答えました。でも、本当にそうするためには医療機関が必要です。それで、施設内診療所をつくる認可を得て、嘱託医だった宍倉啓子医師に診療所長になってもらいました。所長は、今も宍倉先生です。
今、「朋」のメンバーの主治医はほとんどが病院医師で…
重症心身障害児と地域で歩む 「訪問の家」の50年②
■「散歩に出ますか」への答え
髙橋 日浦さんは「文化としての社会福祉施設」ということを、しばしばおっしゃっています。とても印象深く、重要なキーワードでもあります。
名里 この言葉を説明するには、通所施設「朋」をつくった時のことからお話ししないといけません。
先ほどお話ししたように、「朋」はもともと障害者のための作業所でした。当時の福祉制度には重度の障害児者の通所施設はなく、日浦は、重い障害がある人も、昼間通所して幅広い活動ができる場所が必要と考え、横浜市とも折衝していました。
そうしたら横浜市から、そういう場所、すなわち知的障害者のための通所施設をつくったらどうですか、と打診されたのです。
しかもその立地として、戦後、もとは山だった所を高級住宅地として開発した地域を提案されました。その一角が市の所有地だから、そこに通所施設を開設したらどうですかと。
こちらとしてはありがたい話で、ではそうします、となります。ところが、地域住民の反対に遭うんですよ。地域全体が反対していると聞かされます。でも実は、後で聞いたら全然そうではなく、当時の自治会の役員が強硬に反対しておられました。
役員は「福祉施設を建てるというが、文化施設ならいざ知らず、福祉施設はこの高級住宅地には馴染まない」という…
重症心身障害児と地域で歩む 「訪問の家」の50年①
髙橋 今回のゲストは、横浜市の社会福祉法人「訪問の家」の名里晴美理事長です。「訪問の家」は障害者向けの通所施設やグループホーム、地域活動ホーム、多機能型拠点などの事業と、高齢者向け事業、それに診療所も運営し、先駆的な実践を次々に展開してきたことで知られています。
「訪問の家」は、前身から数えると誕生から50年を過ぎました。創設者である日浦美智江前理事長は、重症心身障害児者の地域生活を先駆的に支援され、名里さんはその後継者です。本日は「訪問の家」の歩みを中心に、障害ある人とともに生きることについてお話しいただきたいと思います。
■スタートは「訪問学級」「母親学級」
名里 社会福祉法人「訪問の家」の発端は、1972年(昭和47年)にさかのぼります。この年、横浜市立中村小学校に訪問学級が開かれ、前理事長の日浦美智江がその母親グループの担当となりました。
これは重症心身障害児の学級で、当時の言葉でいう養護学校の学級版とでもいいましょうか。特殊学級というのは、障害が比較的軽い子どもが対象なので。
髙橋 障害が重い子どもへの教育は、かつては盲学校・聾学校・養護学校に分かれていて、養護学校には知的障害・肢体不自由・病弱の子が通っていました。障害の軽い子は小中学校では特殊学級に通っていました。
養護学校への就学が義務化されたのは1979年(昭和54年)ですから、中村小の訪問学級は義務化より7年も早かったわけですね。2007年度(平成19年度)より、盲学校・聾学校・養護学校は特別支援学校に、特殊学級は特別支援学級となって現在に至ります。
名里 市立小学校に訪問学級を設置し、重い障害のある子どもたちが通う、っていうことを、義務化に先んじて始めました。小学校の一室なので…
ホームホスピス宮崎の新たな一歩は 医療的ケア児支援が中心の「全世代型支援」(3)
■報酬が低すぎて広がらない
髙橋 病院・在宅に加えて、短期入所や日中一時での看護が巧みに融合しながら、看護師さんが育ち、その重要なハブの役割をされている。しかも、全世代型ですね。全世代型というのは、小児も高齢も障害も、ケアを必要とするあらゆる人を対象にするので、医療も福祉も利用することになります。そういう面での問題点はありますか。
市原 医療的ケア児のお母さんたちは、極端な話、ぐっすり眠った夜は一晩たりともない、何年もそういう状況です。そういうお母さんが…
ホームホスピス宮崎の新たな一歩は 医療的ケア児支援が中心の「全世代型支援」(2)
■ぱりおんとみつばちの連携
堤 訪問看護は8年経ちました。24時間365日体制で、患者・利用者は100人ぐらい、そのうち15人程度が子どもです。あとは、かあさんの家の入居者や、がん末期の人に訪問しています。みつばち診療所と一緒に看取りまで続けてほしいというケースが増えてきました。
市原 宮崎では、訪問看護ステーションはかなり増え、過密状態です。宮崎に限らないでしょうけど。ぱりおんは、訪問を始めてしばらくしたら…
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