ターミナルに向き合う
髙橋 1993年に「朋診療所」を開設されました。そのいきさつや、医療との関わりを教えてください。
名里 神奈川県では、障害をもつ子どものほとんどが県立こども医療センターに通います。「朋」のメンバーたちも同様なんですが、ところが18歳なると容赦なく、もうこども医療センターでは診られない、次のところに行ってくださいと言われてしまいます。
次のところとは、一般の総合病院です。だけど、総合病院は障害のある人を診たことがなく、なかなか受け入れてくれません。こども医療センターの後に診てくれる主治医を探すのが大変で、自前のクリニックをもとう、となったんです。
もう1つは、進行する病気で、何回も入退院を繰り返し、どんどん状態が厳しくなってしまうメンバーがいました。その方のお母さんが日浦に「朋はどこまで付き合ってくれる?」と聞いたそうです。診療所を開く前で、「朋」には週に何回か、嘱託医が来るだけでした。
そう聞かれて、日浦は「ずっと付き合いたい。最後まで付き合いたい」と答えました。でも、本当にそうするためには医療機関が必要です。それで、施設内診療所をつくる認可を得て、嘱託医だった宍倉啓子医師に診療所長になってもらいました。所長は、今も宍倉先生です。
今、「朋」のメンバーの主治医はほとんどが病院医師で、朋診療所開設当時とは、だいぶ状況が変わっています。ですが、今でもグループホームの入居者が熱を出したり吐いたりっていうときには、夜中でも電話させていただいたり、頼りになる存在です。
髙橋 お聞きしにくいことですが、ターミナルケアの問題にどう向き合っておられますか。
名里 そうですね…。開所以来、本当に数えきれないぐらい亡くなりました。医療的なケアをどこまで入れるか、どこまで家で看られるか。こういったことは、どうしてもラインを決めたくなってしまいます。胃瘻や気管切開の条件を決めるとか。でも、一般論としてのラインはやっぱり決められません。
この人のこの場合は、何が1番いいんだろう、どこまでできるんだろうっていうことを、そのつど、そのたびに、悩むしかないです。もちろん家族とも何度も話し合います。
グループホームの入居者で、食べることがだんだん難しくなってきた方がいました。経管栄養にすれば栄養を摂れますが、ご家族がどうしても口からじゃないとだめと言って、次第に状態が悪くなりました。ご家族は結局、胃瘻を受け入れ、造設しました。
この方はその後、病院で亡くなりましたが、入院されたのは亡くなる数日前で、それまではグループホームで過ごしました。
グループホームの職員は胃瘻のケアができるよう、手技を身に付けています。ご臨終に立ち会うのは怖いとか、自分ひとりのときだったらどうしようとか、迷いもありますが、できるだけここで暮らしてほしいと心から思っているスタッフもいます。
だから、グループホームで看取りはできない、とは思っていません。身近に医師がいることも心強いですし。
地域で暮らすためのグループホーム
髙橋 障害グループホームも各地に開設されています。共同生活の仕組みができたのは大きいんじゃないですか。
名里 「朋」ができて、私たち職員は、ここに通所している昼間の5時間ぐらいをどう過ごしてもらおうか、ということで精一杯でした。
ご家族とも交流したし、今では考えられないんですけど、「朋」に来ている子のおばあちゃんが倒れたと聞いたら、夜、家まで様子を見に行くこともありました。仕事は9時から5時まで、みたいな感覚がない時代でした。
私たちがそうやって日々を必死に送っているうちに、母親たちは私たちよりも先に、次の目標を見据えるようになりました。
このころ短期入所の仕組みはまだなくて、緊急入所だけでした。緊急入所とは、遠方の施設(県外のこともある)に数日、行ってもらうんですけど、本人にとっては行ったこともない場所で、嫌がります。
嫌がる本人に無理をさせて、知らない場所に何日も行かせるんじゃなく、お母さんが一晩だけ休みたい、預かってほしい、そういうときに使える泊まりの場所が欲しい、という声が出始めました。
そこで母親たちがつくる保護者会が地域の一軒家を借りて、障害のある人が泊まれる施設を始めたのです。ただこれは、長くは続きませんでした。
そんな状況で、法人としても、通所だけではダメだと考えるようになりました。お母さんが倒れたりしたら通所できなくなるから、生活のことも考えなければいけない。それで短期の泊まりも始め、1994年には1カ所目のグループホームを作りました。これは全員重複障害、非常に重い障害の方のグループホームです。
当時のグループホームは、身の回りのことが自分でできて、昼間は作業所で軽作業ができる人たちの生活の場だったので、全部介助が必要な人が暮らすことは行政も想定外でした。
だけど、日浦が市役所に何度も行って、こういう人たちの生活の場が欲しいんです、と繰り返し説明していくうちに、わかりました、市で加算をつけましょう、となりました。こうして介護型のグループホームが誕生しました。
また、横浜市はグループホームへの家賃補助もつけてくれたので、入居者が払う家賃を下げることができました。
髙橋 家賃補助はとても重要です。私は住宅手当の導入を主張していますが、これは現実的にはなかなか難しい。でも家賃補助は、自治体がやろうと思えばできるんです。大型施設でない居住の場、身の置き所を確保する意義は大きいです。
中学生が車いすを押す
髙橋 「訪問学級」から50年経ちました。現在は地域とどんな関係ですか。
名里 実はグループホームができる時も、反対する人はいまして、ここは普通の住宅街だから障害の人は住むな、みたいなことを言われたりしました。でも、障害のある人がグループホームで暮らし始め、ご本人や支える人たちを目にしていくうちに、少しずつ変わっていきました。
反対していた人に外で会っても、今では普通に挨拶されるようになりました。甘いかもしれませんが、当事者がここにいることで徐々に変わっていくのではないでしょうか。
「朋」の近くには小学校と中学校があります。ここに通ってくる子たちは、30年以上前からずっと、障害のある人が身近にいるのが当たり前で、学校で障害者について教えなくても、どういう人たちなのか、よく知っています。
ここ10年ぐらいは、すぐ近くにある地域活動ホーム「径(みち)」のみなさんが帰るとき、中学生が車いすを押してくれるんですよ。
毎日必ず当番が来るとか、そんな形で決まっているわけじゃなくて、今日行けますっていう時に来てくれます。午後3時過ぎごろ、「径」の玄関にそういう中学生が来たら、あ、今日は何人来てくれた、じゃあ職員は1人でいいね、と臨機応変に。
コロナ前に行われた保育園との交流会。地域の人たちも参加した
こうして中学生が車いすの人の介助をすると、話ができない人が多いんですけど、でも顔つきを見ながら、今日は暑いとか寒いとか、花が咲いてるとかやり取りしながら、何かを感じてもらえると思うんです。きっと、すごくいい経験になっていると思います。
その様子を、近所の人たちが見てるわけですね。なんか中学生が車いすを押してる。オレンジ色のジャージの子がそういうことをしてる。近所の人も何かを受け取ってくれるでしょう。
そういう意味でも、長くここにいることはとても大事だと思います。私たちは高齢者の事業、デイサービスや居宅介護支援も手掛けています。近年は、ずっとお世話になってきた地域の方やボランティアの方が、それらの利用者になることがありまして、時の流れを感じます。
髙橋 それこそが文化です。福祉文化っていう言葉がありますが、特別なものではありません。
ケアの起源について少し触れたいのですが、鹿児島県の旧隼人町(現霧島市)に蛭子(ひるこ)神社という神社があります。
ご承知の「古事記」のはじめのほうに「イザナギ・イザナミに障害のある蛭子が誕生して、楠の舟に流した」というくだりがありますが、蛭子神社には、流された蛭子を大切に世話したという伝承が残っています。
この神社には「奈毛木(なげき)の森」というものがあり、これは親神の心情を思ってつけられた名前だそうです。
実は、英語のcare(ケア)の語には、もともと嘆き・悲しみという意味があったのだそうです。これがやがて、配慮・思いやりという意味を持つようになり、世話という今日に通じる意味が与えられ、専門あるいは制度の言葉にもなっていきます。
“ケア”の原義を表す概念・意味が洋の東西で通底していることは象徴的で、近代社会の成立とともに、助けを必要とする存在を排除し、隔離するというシステムが生まれたのですね。*3
絶対に何かを感じている
名里 私は、重い障害のある人が何も感じていないとは絶対に思いません。たとえ嫌なことや不快なことでも、話せないから文句は言いませんが、だからって、何も感じていないなんてことは絶対ない。それは本当に長いお付き合いの中で、確信しています。
話せなくても、「あ、心地いいな」とか「誰かが自分に話しかけてるな」とか、絶対感じています。そんなふうに感じてるってことは、心地いいことをもっと味わいたい、っていう望みや希望もあるはずです。
同様に、「これはいやだ」「ここにはいたくない」という意思もあります。そういうものがない人はいない。そう思うんです。
それこそ私はここに来た当初、笑うのかな、泣くのかな、と思いました。でも今は、ちょっとした変化、ほっぺたの緊張が解けたり、目の開き具合が変わったり、少しだけ声が出たり、手がちょっと動いたり、…そんなとき「あ、なんか今、思ってたね」とわかるんですよ。
それをじっくり見て、どう思ったんだろう、と思い巡らすことが、私にとって1番幸せな時間なんです。思い巡らせてわかったとき、いえ正確には、わかったっていうより「こういうことかな」と気づいたとき。これが、また格別で。
髙橋 かなり昔、日浦さんのところに伺ったとき、子どもたちの顔を見て、同じことをひしひしと感じたことを思い出しました。あ、面白がってくれてそうだ、と。懐かしく思い出しました。
名里 その感覚を、地域の小中学生や大人の皆さんが少しでも感じてくださってることが大事というか、感じてくだされば、本当に嬉しいです。
髙橋 我々は本音を隠したり、ごまかしたりするけれど、彼らはそういうことは一切しないから、ダイレクトに伝わってきますよね。
訪問の家の始まりを担われた日浦さんの思想が、3代目理事長の名里さんにもしっかり受け継がれ、地域にもその理念がしっかりと伝わっていることを実感します。「訪問の家」は通所施設に一時入所、グループホームと、障害の分野で先進的な実践を続けてこられました。
この思想を拠り所に、母親の願いと行動力を受け止め、また、地域のボランティアの支えを得ながら、そして職員の皆さんが、ときに歯を食いしばるような思いで、日々、決して立ち止まらなかったことが、今につながっていると思います。
本日はありがとうございました。(完)
*3 髙橋紘士.ケアの社会政策のために. 社会保障研究.Vol.1,No.1. 2017.国立社会保障・人口問題研究所