石原美智子×髙橋紘士
陪席・太田澄子
いしはら・みちこ
社会福祉法人新生会名誉理事長、株式会社新生メディカル代表取締役会長、Ballarat Health Services(オーストラリア)名誉理事。岐阜県居宅介護支援事業者協議会会長、社団法人岐阜県経済同友会幹事なども務めた。著書に『夢を食む女たち』(中央法規出版)、『生きててよかった』(ミネルヴァ書房)など。
おおた・すみこ
社会福祉法人新生会名誉常務理事。37年前、石原さんに“スカウト”されてサンビレッジ新生苑に入職、施設長などを務めた。著書に『ケアプランなるほどヒント集』(日総研) 、『尊厳を支えるケアを目指して 失敗から学ぶ50のヒント』 (中央法規出版)。
たかはし・ひろし
介護・福祉・医療政策を研究。特殊法人社会保障研究所研究員、法政大学教授、立教大学大学院教授、一般財団法人高齢者住宅財団理事長などを歴任。『地域包括ケアを現場で語る』(木星舎)ほか著書多数。
新生会と新生メディカルの始まり
髙橋 岐阜県の西濃地域を拠点とする社会福祉法人新生会(本部・岐阜県池田町)は、2021年に創立45周年を迎え、50周年も目前です。1976年(昭和51年)、前身である社会福祉法人サンビレッジ新生苑を設立し、特別養護老人ホーム「サンビレッジ新生苑」を創設したのが始まりです。
新生会はおよそ50年にわたって福祉・介護事業を幅広く展開してこられました。始まりの事業であるサンビレッジ新生苑は、石原さんの父上である今村勲医師が手がけられたのですね。
石原 父は外科医で、戦前は名古屋市の病院に勤めていました。戦火の拡大で池田町に疎開し、終戦後も名古屋に戻らず池田町に診療所を開いたのです。求められて往診によく出かけていました。初めのうちは結核患者が多かったそうです。
診療所は規模を拡大し、1973年に新生病院となります。そのころ父は、誰もいない家に一人、おむつを当てられ寝かされている高齢者が増えていることに気づきます。
髙橋 その背景には、家族形態の変化や家族員の兼業化が進んだことがあります。家族による世話が難しくなり、老親の世話というもののあり方が様変わりしていった時代ですね。
石原 新生病院にも社会的入院の高齢者がいらっしゃって、父はそういう高齢者や家族を救いたい、理想の老人ホームを造りたい、とサンビレッジ新生苑を開設しました。この思いは、今なお受け継がれています。
新生会の現在の事業
・介護老人福祉施設(特養)
・短期入所生活介護(ショートステイ)
・通所介護(デイサービス)
・訪問看護
・居宅介護支援
・認知症対応型共同生活介護(認知症グループホーム)
・住宅型有料老人ホーム
・配食サービス
・障害福祉サービス
・医療福祉専門学校
・NPO法人 校舎のない学校
…など
髙橋 サンビレッジという名称は、アメリカ・アリゾナ州の高齢者居住地「サンシティ」にちなむそうですね。
社会的入院とは、本来入院する必要のない高齢者が、介護を受ける場所がないため長期間入院することを指します。1973年に老人医療費が無料化されると、介護の必要な高齢者は費用負担を考えずに病院に入院することが通例になりました。でも、ほとんどの老人病院の環境はそもそも生活支援には不向きです。
父上のエピソードは、広島・御調町で地域包括ケアを始めた山口昇医師の経験にも通じるものがあります。山口医師も外科医でした。石原さんご自身は新生会とどのように関わってこられたのですか。
石原 私は父の運転手として新生病院に入職し、やがて病院経営に関わるようになります。当時、新生病院のほか今村医院という診療所もありまして、薬品などを効率的に仕入れるために設立したのが、有限会社新生メディカル(現在は株式会社、本社・岐阜市)です。社会福祉法人を設立した翌年、77年でした。
髙橋 新生メディカルのスタートは医療機関の付帯事業だったのですか。
石原 だから社名が新生「メディカル」なんですよ。今、新生メディカルは在宅介護事業が中心ですから、よく「どうして社名がメディカルなの」と聞かれるんですけど、そんな事情です。
新生メディカルの現在の事業
・訪問介護
・通所介護
・福祉用具貸与
・居宅介護支援
・定期巡回・随時対応型訪問介護看護
・障害福祉サービスの居宅介護
・保育事業
…など
サンビレッジ新生苑ができて3年後、私は施設長になりました。前任者からバトンタッチされた直後、重度の方は寝たきりの状態でした。入居者の日課は決まっていて、おむつ交換は1日5回、時間も決められていました。
車いすも入居者100人に対して5台しか用意されておらず、日常的に使うものではなかったので、居室内でなく玄関脇に置かれていました。そういう現実は新生苑を造った父の思いとはかけ離れていて、施設長に就任した直後はショックを受けてしまいました。
すべてはオーストラリア視察から始まった
髙橋 そんなときに、オーストラリアに行かれました。
石原 そう。就任して間もないころです。オーストラリアに行って現地の高齢者施設を見せてもらいました。そうしたら、もう驚きの連続。おむつを着けた方は皆無で、失禁されたらシーツも寝巻もすぐ、スタッフが洗濯に出します。そのため、敷地内に大規模な洗濯室がありました。まるで洗濯工場のような。
朝はスタッフがワードローブを開けて「今日はどれを着ますか」と尋ね、高齢者が選ぶ。選んだドレスは障害があっても着やすく工夫されていて、寝巻からこれに着替えて離床。そういうことが当たり前に行われていました。
うっそー! 何これ、嘘でしょ、って、ほんとに信じられませんでした。日本人とは髪の色は違うし言葉も違う、食べる物も違うけど、同じ人間じゃないですか。
老後をこのように過ごせる国民と、おむつを着けて寝たきりにされる国民。両者の何が違うんだろう、どうすれば日本でもこういう老後が手に入るんだろう。そう思ったのが私の原点です。
髙橋 高齢者ケアのあるべき姿を、オーストラリアで見つけられたのですね。そういえば、ドキュメンタリー映像作家の羽田澄子さんが池田町と新生会を舞台に制作した『安心して老いるために』(1990年、自由工房)は、オーストラリアや北欧と対比しながら日本の高齢者ケアのあるべき姿を追求した映画でした。池田町の中学生が北欧の高齢者福祉の現場を見学していた場面は忘れられません。
大熊由紀子さんの『寝たきり老人のいる国いない国』(ぶどう社)も1990年に出版されました。このころは日本の介護の現状をどのようにしていくかを模索する時期だったのですね。
石原 福祉っていうと、貧しい人や身寄りのない気の毒な人、老いて頼るところのない人に施す、そんなイメージじゃないですか。私はそうじゃないと思います。
人間が生まれて成長して、年を取って、人生を終えていくのは、全ての人に共通の行程で、老後っていうのはその最後の段階でしょう。どんな人にとっても、等しく。
だから老後のケアは、貧しい人のためだけ…のはずがなく、全ての人に必要。どんなお金持ちだって、介護の必要な状態になったとき介護する人がいなかったら、どんなに財力があっても何の役にも立たないわけですよね。
お金の問題でもない、慈善の話でもない、当たり前のことを当たり前にやる。しかるべきケアのしくみを用意しておく、社会として当ったり前のことです。
オーストラリアでは、それが現実になっていました。なんで日本とこんなに違うの? もう、オーストラリアに引っ越そうと思うほどだったんですよ。でも、それはだめと言われ、私は日本にこれを輸入しようと思いました。
仕組みとかテクニックだけじゃなく、考え方や価値観も。それは上から施すっていう上下の価値観じゃなくて、人と人が横につながる価値観です。
髙橋 日本ではある時期まで、福祉制度は公権力が制度利用者を定める措置の仕組みによって運営されていました。経済的困窮により援護の必要な人々を行政が「措置」し、施設等に「委託」して生活させるという考え方です。
経済的な困窮状態のみを基準としていたため、一定以上の階層の人たちはこれらの施設などを利用できなかったのです。ある外国人学者が「貧しい人のための貧しい福祉」と形容したことがありますが、日本はまさにそうでした。
高齢者ケアでは、1963年施行の老人福祉法のもと、特別養護老人ホームが創設されました。生活保護法上の保護施設であった養護老人ホームから独立して、虚弱で生活上の世話が必要な老人を対象とした施設です。
これらは経済的な能力に応じて利用料を徴収する応能負担だったので、中間層には利用しづらい施設でした。
石原 70年代の新生苑はさっき言ったように、父が思い描いたような理想の高齢者施設ではありませんでした。それで、オーストラリアのように変えていこうと決意して、帰国後、体験実習や海外視察などを取り入れていったのです。
職員に仕組みやテクニックだけを伝えるのではなく、考え方から変えてもらう、意識改革を重視しました。利用者も職員も管理者も、みんな対等な人間。決して、かわいそうな人に上から衣食住を施すのではないと。
もちろん新生会や新生メディカルの組織にもちゃんと職務上の職階がありますよ。だけど、人としてはみんな対等。おぎゃあと生まれて、何十年かしたらあの世へいく、その過程でそれぞれ役割分担している。そうやって責任を背負って、みんなで作っていこう。そんなことを意識してやってきたかな、と思います。
利用者との関係も同じです。相手を哀れんだり、人ごとと思ったりしてケアしても楽しくないでしょ。自分の親を入れても満足できる、将来は自分も入りたくなる、そういうものを造ろう。その意識をどう広めるか、というのをすごく大事にしてきました。
髙橋 その考え方をどうやって職員に伝えるのですか。
石原 ローマ字の「H」の話をします。よく、「人」という字はお互いに支え合う・助け合うことの象徴だ、と言われますね。私は、それは違うと思う。
人っていう字を手書きすると、右側の短い画が左側の長い画を支えてるじゃないですか。これ、右側が倒れたら、共倒れ。長い方が一方的にもたれかかっている、依存してるんです。支え合いじゃなく。
だから、それは違うと。「H」は左右がまっすぐ自立して、その真ん中を水平な棒がつないでいます。そうやって強固に立っている。そういう文化、Hの文化を作らなきゃ、と私は話すんです。
髙橋 確かに、かつて家族介護に依存していた時代は、その家のお嫁さんが「人」の右側のように、全部背負いこんでいました。サラリーマン世帯では核家族化が進み、主婦に子育てと同時に高齢者介護の負担がしわよせされていったのです。
介護保険導入の直前、ある有力政治家が「介護保険制度は子どもが親の面倒をみる美風を損なう」と言って、施行が延期されかけたことを記憶にとどめておくべきですね。
「子どもが親の面倒をみる美風」は歴史の誤認で、一部の中間階層のみの話を一般化したにすぎません。富裕層は家事使用人や看護婦(当時)に介護を委ねていた、すなわち家族介護ではなかったことを意図的に伏せた発言でした。
映画『安心して老いるために』(1990年、自由工房)には、石原さんがこの時期に努力されてきたことが映像として記録されています。
(「中」に続く)