「だんだん会」として事業を開始して7年、7つの事業を立ち上げました。どの事業も目標の1つは、要介護でも重病でもご本人が望むような最期を迎えられるように支援することです。
たくさんの方々に出会い、そして入居者・利用者のたくさんのお看取りの支援をさせていただきました。
グループホームでの看取り
グループホームに入居している本人や家族は、延命などの治療は望まず自然にこの世を終われるようにという方がほとんど。
たとえば90歳のAさんは、元大学教授。尊厳死協会に入会していて、自分の最期について書いたものを息子さんに託していました。
他の病気があるわけでなく自然に衰弱が進み、いよいよ食事も水分も口にすることができなくなります。医師と家族と職員とで話し合った結果、点滴などの治療はせずに、口から飲めるだけ飲んで見守るということになりました。
経口摂取がゼロに近い状態ながら、本人の意識は鮮明で静かに目を閉じていました。その状態が3週間ほど続いた後、血圧が低下し、死は目前です。そこで私は家族に「いよいよです。できれば泊まり込んで一緒にお看取りしましょう」と伝えました。
その日は娘さんが泊まり、一晩中2人でお話ししていたそうです。かすれ声で昔の話やら…。
翌日、息子さんが傍で見守っている中でAさんは息を引き取りました。「宮崎さんがいったように、呼吸の様子が変わってきて、大きな呼吸を2回したんです。ああこれが最後の呼吸に違いないと思ったんです」「父の耳元で『お父さん、大好きだよ!』と言ったら、父の目から涙がこぼれたんです。それで『お父さん、ありがとう』と言うと、もう一度大きな呼吸をして、それから呼吸をしなくなったんです」「父にとって最高の死に方です。本当にありがとうございます」。
このように、多くの方をお看取りさせていただきましたが、どの方もドラマのような素晴らしい生き方の最期だったと思います。
わがままハウス山吹での最期
わがままハウス山吹は、支援付き多機能型シェアハウス。11名の方が入居しています。認知症の方もいれば重度の内臓疾患の方、足腰ピンピンで認知症もない元気な90代の方など多様な方がいっしょに暮らします。
Bさんは93歳で重度の認知症。普段は車いすです。穏やかでにこにこして他の入居者から慕われていました。Bさんの親族の願いは、何があっても入院しないで、このわがままハウスで静かに看取ってほしいということでした。
少しずつ衰弱し車いすに座ることができなくなり、お部屋でベッドに横になったままうとうとしている時間が増えてきました。そうしたら、他の入居者が心配して「Bさん、最近リビングに顔を出さないね。具合が悪いのかな。みんなでお見舞いに行こう」と見舞ってくれました。
「Bさん、リビングで隣の席を空けて待っているからね」「何か食べたいものない? 持ってくるよ」などと話しかけてくれました。目を閉じたままぼーっとしていることが多かったのに、この時はしっかりと目を開けて、笑顔でお話しされていました。
それからまもなく、Bさんは静かに息を引き取られました。他の入居者の方々に「今朝、Bさんが静かにあの世に逝かれました」とお伝えすると、「ああそう。Bさんは幸せね。うらやましいわ。私の時にもこんなふうに死にたいわ、ね」と口々におっしゃいます。
そして、玄関で、みんなでBさんをお見送り。「私ももうすぐ逝くからね、待っててね」と。
自宅・在宅とは違ったお看取り
私は、もともと訪問看護師です。ご自宅での看取りを数多く支援してきました。ご本人らしい、ご本人が望むような最期の生活を送れるように、医師や他の職種、それに家族と一緒になって取り組み、素晴らしい最期の生き方を見せてもらいました。
八ヶ岳に来てからも、ご自宅での最期の支援も多数実施していますが、グループホームやシェアハウスでの看取りを支援させてもらって、何とも言えない感動を覚えています。
Bさんのように、家族ではない、いっしょに暮らし合う他の入居者が、ある意味でターミナルケアを行い、そして看取りの一員として役割を果たしているのです。
高齢期に初めて出会い一緒に暮らした数年なのに、そういう人間関係を作ることができるものだなあ。そうできるようにすることが職員の役割なんだなあと。人間はたくましい!
宮崎和加子(みやざき・わかこ) だんだん会理事長
訪問看護のパイオニアで認知症ケアの先駆者としても知られる。東京都初の訪問看護ステーション所長や全国訪問看護事業協会事務局長などを歴任した。