臨床倫理は介護の現場でも問われる。介護の臨床倫理はとりわけ認知症の人と接するときに問われる。自己決定は尊厳と表裏一体だから、認知症が重度となって自己決定が難しい人の尊厳をどう保つのか。この問いが介護職を悩ませる。
暮らす人が何も自己決定できないような居住空間は、たとえそこにベッドやクローゼットがあっても“生活の場”とはいえない。施設ですらなく、あえていえば収容所だ。
「住まう」という言葉には、自立と尊厳が込められているような気がする。「住まう人」とは単にそこで暮らす人ではなく、自立し尊厳をもって生きる人ではないか(この自立とは、他人の力を借りずに生きることではない)。だから、「住まう」には本人の覚悟も必要だ。
住まう人への在宅医療や在宅介護は、その自立と尊厳を維持するためのサービスといえる。在宅ケア提供者は常にこのことを意識してほしい。
ケアの倫理を検討する
国立市では、地域ケア会議で要支援1、2の人の事例検討を長く行ってきた。事例検討から、要支援1、2の人には何が必要なのかを検討する。
自分の身の回りのことはある程度できるから、身体介護的なサービスではないだろう。昼間、身体を動かしたり友人と会話したり、一緒に食事したりできる居場所が必要だろう。ケアマネジャーや行政も参加して、そんなことを議論してきた。
2025年度からは、要介護3、4を中心に、ケアの倫理について検討することになった。事例検討ではケアプラン検証ではなく、倫理検証に取り組む。「臨床倫理の4分割法」(下図)を用いることを基本としながらも、“4分割原理主義”に陥らないように検証する。
医学的適応
(善行・無危害)
本人の意向
(自律尊重)
QOL
(本人の生活・人生)
周囲の環境・状況
(家族、経済、宗教など)
要介護3、4は本人の意思と家族の意思が交差する、ある意味で一番大変な状態である。「4分割法」の構成要素は前回も述べたように、トレードオフの関係だ。そういう悩ましい構造のなかで、ケア提供者はどうやって最善の答えを導き出すか。
そんな手間のかかることにあえて取り組むのは、このままだと介護現場は収容所化してしまうような気がするからだ。人材不足は深刻で、訪問介護は報酬も減らされて閉業する事業所が続出している。訪問介護がなくなれば、生活できない。住まうことができない。
中学校区域を1事業所で
人材不足なのにどうやって在宅介護の質を維持するのか。倫理観を高めるだけでこの難題を解決できるはずはない。社会保障審議会で「中山間地には公務員ヘルパーを導入すべき」という意見が出るほど、訪問介護が壊滅的な地域も出始めている。
今は介護保険の枠組の中、ケアプランは個人単位でつくられる。訪問介護も利用者に応じてプランされるので、Aさん宅とその隣のBさん宅には、別々の事業所から別々のヘルパーが訪問する。
仮にBさんを訪問するヘルパーの事業所が閉業してしまったら、Bさんは訪問介護を受けられなくなり、施設入所せざるをえなくなる。
介護保険はいわゆる準市場で、保険者(自治体)によって事業者の自由度は異なる。私は、もう保険者がある程度の縛りをかける時期ではないかと思っている。
訪問介護であれば、例えば中学校区域を1つの事業所に任せて、域内の高齢者はすべて、そこのヘルパーが担当する。ケアプランはもちろん個人単位だが、サービス提供者は1カ所のみとなる。
そうすると、定期巡回型で効率よく訪問できて、ケアの時間も確保できる。包括報酬とすれば、給料も高くできるのではないか。給料が他産業に追い付けば、人は来るだろう。
DX化を進め、夜間は夜勤スタッフが利用者宅を事業所でモニターする。もちろん、プライバシーや人権に配慮した形で。転倒など緊急事態となれば、介護や看護のスタッフが駆けつける。
在宅医療を説明する際、“地域全体を1つの病院とみなす”という表現がしばしば使われる。この表現を借りれば、“地域全体を1つの施設とみなす”わけである(在宅医療と病院医療、在宅介護と施設介護には根源的な差異があるから、これらの表現に全面的に賛同はしないが、ここでは措く)。
介護保険制度が始まって26年目。制度創設当時とは状況が一変し、そんなドラスティックな制度改革が必要なのではないだろうか。

新田國夫(にった・くにお) 新田クリニック院長、日本在宅ケアアライアンス理事長
1990年に東京・国立に新田クリニックを開業以来、在宅医療と在宅看取りに携わる。