「倫理上の問題で治療できない」?
前回に続き、『透析を止めた日』(講談社、2024年11月刊)の話を続けたい。ノンフィクションライターの堀川惠子さんが、腎臓病で亡くなった夫・林新さんの闘病を綴った話題の本だ。
肝臓にも病変が見つかり、肝腎同時移植が検討されたが、結局、主治医は移植見送りの判断をした、というくだりで、「倫理」という言葉が登場する。林さんは肝腎同時移植に一縷の望みを賭け、「最後の希望」と口にしていた。
その直後に、主治医から移植断念を告げられてしまう。「移植しないなら、このまま輸血を続けることはもう……」と告げられ、林さんは〈目を見据えはっきりとした声で質した。「先生、それは、生きたいという僕の意志(原文ママ)に反して、治療をやめるということですか」〉。主治医は答える。〈「いえ、少しずつで……。ただ、このまま点滴を続けるのは倫理上の問題が……」〉。
堀川さんが解説する。〈倫理上の問題――。つまり回復の見込みのなくなった患者を、これ以上、医療の力で生かし続けるわけにはいかないということだ〉。
主治医は、このまま点滴を続けることには倫理上の問題がある、と言い、そのあとの言葉を濁しているが、つまり「倫理上の問題があるからもうこれ以上点滴もできない」という意味であろう。
ちょっと待ってほしい。回復の見込みがなくなった患者を医療の力で生かし続けることが倫理に反するなら、在宅医療はできないということにならないか。在宅医療の対象は、回復力が大きくはない人たちだからだ。
生きたいと明確に意思表示している林さんに、倫理上の問題があるからこれ以上点滴もできない(医療の力で生かし続けることはできない)、と言うのは、大きな間違いだ。林さんに点滴するか(治療行為を続けるか)は、医療の側が一方的に決めることではないはずだ。
倫理上の問題という言葉を、このとき主治医がどういう意味で使ったのかは、わからない。重大な局面を迎えた患者とその妻に向き合い、その場の雰囲気に流され、咄嗟に口から出てしまったのかもしれない。そこには、医師(腎臓の主治医)と患者しかいなかった。だから、間違いが生じたということではないだろうか。
その1週間後、林さんは自ら〈「先生、もう、透析はいいです」〉と主治医に告げる。堀川さんは〈私には、命のボールを、林が自分の手に取り戻したように思えた〉と述懐する。ここを読んで、ああよかった、と心から思った。
医療倫理と自律を考える
和辻哲郎によれば、倫理の倫は「なかま」、理は「ことわり」「すじ道」を意味するという。したがって、倫理は人間の共同的存在の秩序なのだ、と。だから、事実そのものに帰れ、と説く。きちんと事実を見て、仲間で話し合う。倫理は人間の存在の内にある、と指摘する。
現代において、医療倫理は自律(オートノミー)と切り離せない。自律はウェルビーイングとともにQOLを支え、人格を尊重し、尊厳を守ることにつながっていく。和辻は、「倫理問題の場所は孤立的個人の意識ではなくしてまさに人と人の間柄にある。だから倫理学は人間の学びなのである」と考察した。
箕岡真子医師は、自律には個別的な自律と共感的な自律がある、と整理している。個別的な自律は自己決定の基盤となるが、それだけでは足りない。家族など本人の周囲を含めた関係性から生まれる、共感的自律が重要だ。これが他者による代理決定を可能たらしめる。
そう考えると、やはり林さんの主治医の発言は、間違いだ。「倫理上の問題からこれ以上点滴できない」などと、医者が決めることではない。
医療倫理の4原則とは、自律性の尊重、善行、無危害、公正である。臨床現場では、問題を手っ取り早く解決するツールとして4原則が安易に使われるようになっている。4原則のマニュアル化も散見される。あたかも法のように杓子定規に持ち出されるのだ。
そうではない。箕岡医師は「臨床現場における方針決定のためのツールとして、個別のケースを理解し、咀嚼・消化し、熟慮・吟味し、ケースの個性に即した用い方」や「倫理原則至上主義に陥らず、患者のナラティブに配慮した、よりフレキシブな対応」が望まれる、と主張する。まったく同感である。

新田國夫(にった・くにお) 新田クリニック院長、日本在宅ケアアライアンス理事長
1990年に東京・国立に新田クリニックを開業以来、在宅医療と在宅看取りに携わる。