前回はドイツの家庭医制度とフランスの主治医制度を考察した。イギリスでこれらに相当するのはGP、ジェネラル・プラクティショナーである。イギリスでは、GPはコミュニティヘルス、病院医師は入院や救急医療、と役割が明確に分かれているのはもちろん、両者の養成課程も異なるという。
ゲートキーパー不在で医療が逼迫
そのイギリスでは、新型コロナ死者が欧州でも突出して多かった。理由の1つとして指摘されるのが、GPの多くが対面診療を休止したことである。
市民の側にもGP診療所への受診控えが生じた。その結果、症状のある患者は軽症者も含めて救急外来に殺到し、病床が逼迫した。GPはコロナ禍という有事においてゲートキーパー機能を果たせなかったのだ。
ドイツでは対照的に、家庭医はパンデミック初期からきちんと外来対応し、入院は限定するという方針を維持した。外来で重症度を判定し、軽症者には対症療法、重症者は入院とトリアージし、通常医療と両立させた。ドイツ人の国民性もこれに寄与したのではないかと思う。
さて、日本にはイギリスのGPやドイツ家庭医のような制度はなく、市民の側には、どの医療機関でも受診できるという習慣が染みついている。しかし新型コロナ流行初期、市民は受診する前に電話で相談することとされた。
感染者は原則、全員入院で、それも感染症指定医療機関に限られたから、感染者が増えればすぐ満床となり、病床はすぐ逼迫した。保健所が間に入ったことも、一層の混乱を招いた。
さらに一部の診療所はコロナ陽性やその疑いの患者を診療しない事態となった。コロナ患者を診る診療所はそのしわ寄せを被り、外来逼迫の事態となった。
こうして日本の医療全体が逼迫したわけである。イギリスも日本も、ゲートキーパー不在となったことが根本的な問題だった。日本の場合は、医療機関のほとんどが“私立”であることの影響も小さくなかった。
イギリスやドイツでは、外来(診療所)と入院(病院)の機能が明確に分けられている。GPや家庭医の診療所には検査機器はほとんどなく、看護師がいないことも多い。診療所では患者との対話が重視され、身体所見と病歴聴取に基づく臨床推論が中心となる。
日本では、両者の機能は分かれるどころか、むしろ重複している。日本の診療所の多くはX線検査や内視鏡などの設備をもち、血液検査もできる。そのため対話が軽視される傾向はどうしても生じてしまう。
ジェネラリストが「総合診療医」と訳される違和感
ドイツ家庭医はジェネラリストである。これはスペシャリスト(専門医)と対比する表現だが、ドイツでは家庭医は専門医の一領域でもあるから、スペシャリストの1つとしてジェネラリストが確立している。
ジェネラリストが日本語で、しばしば「総合診療医」と訳されることに、私は違和感を否めない。日本の総合診療医は何をする医者か。受診する科がわからない患者を診察して、「あなたの病気は○○だから、△△科を受診してください」と鑑別診断する医者のイメージが強い(テレビ番組の影響も大きいだろう)。
病院の総合診療医であれば、鑑別診断をつけて適切な治療につなげる役割も大事だけれど、本来のジェネラリストの役割は、それにとどまらないはずだ。ジェネラリスト、総合診療医、家庭医。これらが明確に定義されないまま混在している。これに「かかりつけ医」が加わって、わかりにくさに拍車をかけている。
日本の医師は開業医も病院医師も、身体所見と病歴聴取に加えて検査所見から、臨床推論や鑑別診断を行ってきた。本来のジェネラリストとは欧州の家庭医のように、患者の話を丁寧に聴くといった、日本の感覚では“非医療的”な対応がきちんとできる医師ではないのか。
19番目の専門医「総合診療医」
かかりつけ医、家庭医、主治医。ジェネラリストと総合診療医。いろいろな呼び方がある。このうち、現在の日本にいないのは家庭医だけだ。
島崎謙治『日本の医療 制度と政策 増補改訂版』(2020年)によれば、これまで、日本にも家庭医を導入しようとする動きは何回かあった。最初は1956(昭和31)年、専門医制の一環として家庭医を設けるべきと提言されている。
それからおよそ30年後の87年、厚生省「家庭医に関する懇談会」は報告書を公表するが、日本医師会の猛反対に遭い、実現することはなかった。その後、家庭医の議論は封印された感がある。
ほぼ30年後の2015年、「専門医の在り方に関する検討会」は19番目の専門医として総合診療専門医を位置づけた(その中心業務が鑑別診断であるかのようなイメージになっているのは、前述のとおりである)。
この19番目の専門医として、家庭医ではなく総合診療医が登場したことは重要な分岐点であったと同時に、家庭医をさらにわかりにくくし、脇に追いやったとも言える。
主治医とかかりつけ医は同じか
前述したように、日本では長い間、家庭医の議論は封印され、家庭医という言葉すら使われなくなった。その代わりに、「かかりつけ医」の概念が登場する。かかりつけ医と主治医も、しばしば同一視される。
私の感覚では、主治医とは疾病治療の中心となる医者である。主体は病院医師や整形外科医、眼科医などで、その病気が治るまでの役割だ。
一方、かかりつけ医とは主に壮年期以降から看取りまで、後半の人生に伴走するし、本人だけでなく、その家族もみる。まさに「家庭」医の役割を果たす。そして、その機能は医師だけでなく、看護や介護といった多職種が担う。
したがって、主治医とかかりつけ医は別と思っているのだが、主治医イコールかかりつけ医、と捉える向きも多いようである。その象徴が介護保険の「主治医意見書」で、これは「かかりつけ医意見書」であるべきだと思う。
介護保険がつくられた1990年代後半は、今と違って在宅医療も根付いていなかったし、地域医療は重視されていなかった。高齢者も病院を受診することが多く、「主治医意見書」で違和感がなかったのだろう。実際、介護保険が始まったころは、主治医意見書の約半数は病院医師が書いていた。
なんとも複雑に絡まっている、と言わざるを得ない現状である。かかりつけ医であれ家庭医であれ、日本の診療所の独自性や長所を損なうことなく、長寿化した患者の人生・生活(LIFE)を看取りまで支えることが求められていることは、間違いない。

新田國夫(にった・くにお) 新田クリニック院長、日本在宅ケアアライアンス理事長
1990年に東京・国立に新田クリニックを開業以来、在宅医療と在宅看取りに携わる。